昨日に引き続き雨こそ降っていないもののどんよりとした曇り空でそこそこ気温も低いおかげですごしやすいお天気で、たっぷりおでかけしたのでしっかりくたびれたおやすみでした。
昨晩はおやすみを少しでも充実したものにしようと 1 時まえにはおふとんへ入ったものの脳が真っ赤になったまま戻らなくなってしまいほんとうにぜんぜん寝付けない!!魔法薬を足してもボロボロ雑貨ピカピカ動画をみてもせいぜいまどろむていどで時間はどんどん過ぎてゆき、魔法薬を 3 度追加してようやく寝付けたのは 5 時前でもう外が白みはじめていて最悪です。協会本部で無料のコーヒーを見つけたのがうれしくてぐいぐい飲んでいたのがよくなかったのかもしれません。予定では 10 時まえに起きるはずだったのに気づけば 11 時、なんだか喉の調子もよくないしかなり不快な目覚めでした。あとくらしにかんするあらゆる願望がかなうおうちに引っ越す夢を見て、目覚めてからしばらく考えて夢の中でこういうふうにお部屋をアレンジしよう ♪ と考えていたことがすべてかなわないことに気づいたときはほんとうにみじめな気持ちでした。この小さな銀河はいったいいつになったら洗面台が独立したおうちに住めるんだ、もしかして帝都にしがみつくかぎり一生このままなのか?
起きてからはともかくシャワーを浴びてむりやり目を覚ましたらおでかけです。せっかくなのでいきがけ朝ごはんを食べておこうと駅前のイートインコーナーがあるオシャレめなパンやさんにいったらドーナツやクロワッサンといったおもためのパン類しかなく、ほかに朝ごはんになりそうなものもなかったのでいちおうチョコドーナツを買ってみたもののひとくちかじったら飽きたのであきらめてコーヒーだけ飲んでから電車にのりました。そのときはとうてい受け付けませんでしたがカフェめしてきなプレートもあるらしく、ちゃんとねむれてさえいればおいしく食べられたのにと思うとほんとうにくやしいです。
ともかく電車に乗り込んだら南北線後楽園駅で大江戸線に乗りかえ清澄白河で降りて、向かう目的地は東京都現代美術館です。はずかしながら初めていったのですがほんとうに駅から遠くて、その道中というのもまたなんともいえない下町で非常に親近感がわきました。裏口がありえないぶっこわれかたをしている民家とかを見つけるとほんとうに心安らぎますね。いちおう道のところどころに大雑把な方向案内があったりはする程度でほぼいつものおさんぽとかわらない道中を歩くこと 15 分ほど、ようやく建物が見えてきてから入り口に辿り着くまでもまたちょっと歩くのでなんて徹底しているんだと思ってちょっとおもしろくなってしまいました。
まだ午前中だからか中はわりと空いていたのでロッカーに荷物を預け、入場券を買ったら「9 つのプロフィール 1935-2025」をみます。東京都現代美術館の開館 30 周年を記念して戦前から今日にいたるまでの 90 年を 10 年ずつの区切りに分けたコレクションとともに振り返るというようなコンセプトで、まあ夕方までのつなぎになればよかろうなどと軽い気持ちでのぞんだら予想をはるかに上回るボリュームと内容でめちゃくちゃおもしろかったです。まずは入ってすぐのところにでかいアルナルド・ポモドーロのジャイロスコープの彫刻やオノ・ヨーコのいかにもオノ・ヨーコっぽい作品がバンと展示されていて上野との雰囲気の違いにビビる、こういうつくりは地方の果てにとつぜん現れる現代美術館っぽくておもしろいですね。1 階からでられる中庭には鈴木昭男による足跡のマークがきざまれた石段があって、ようはそこに立って耳をすませてみろということらしい。実際にためしてみるとてんきがよくひとがいなかったこともあってほんとうに気持ちがよかったいっぽう、ひとがいたら頭の中が憎い憎いの文字でいっぱいになってしまうことはたやすく想像できるのでこれが作品のよさなのかたんにすいていたという偶然によるものなのかはいまいち判別できません。
展示についてはたんに作品数が膨大で見応えがあるというだけでなく、10 年区切りでゆるく時代性をまとめているおかげでそれぞれがどのように影響をあたえていくのかという通時性が直感的にわかりやすく整理されているので素人でもなんだかわかったような気分になれるのがおもしろかったです。とくに戦前〜直後期の絵画がめちゃくちゃよく、明治あたりはまだまだ舶来の付け焼き刃という感じだった技法の数々がすっかりこなれて骨肉を伴った表現になっていたのでかなり見応えがありました。このあたりは意外と流されがちというか、西洋絵画の文脈で言うとどうしても明治初期あたりがフォーカスされるしこの近傍には戦争画という巨大なトピックが存在するのでこれだけのボリュームで見られるというのはそれだけできたかいがあったなと思います。とくに栗原信と作者名失念したが駅で寝ているひとのクロッキー、後者は展示スペースが奥まった廊下のようなところにあるので鑑賞体験としても没入感があるしみんな寝てはいるのにいまにも飛び起きそうなエネルギーをひめた警戒をといていない感じがめちゃくちゃ出ていてカッコよかったです。こういうクロッキー類って作家の特別展とかでもないとなかなかお目にかかる機会がありませんが、なにをどういうふうにみてどうかこうとしているのかという断片がすこしわかるような気持ちになるので見応えがあってけっこう好きかもしれません。
いっぽう時代がくだるにつれて初期にはたしかにあったはずの肉体が失われて急激に興味も薄れるというかよくしった現代の"アート"に収束する感じなのはほんとうにふしぎでした。戦争やその後の安保運動といった巨大なうねりに対する一種ヒステリともいえるような劇的な反応は近現代においては環境問題やテロリズム・もう少し近いところで言うと震災などで同じようにあらわれているはずなのですがそのどれも体重がのっているようにはどうしても見えない。どうしても冷笑的というか一歩引いたシニカルさが付きまとっていて、とくに東日本大震災にかんする作品はほとんどすべてどうせこいつら都民だろとしか思えませんでした。むろん表現の場においては実体験の有無によってなにか差がつくわけではかならずしもないが、爆発炎上する原発の船が大波にあらわれるでかい版画でなにか批判したことにはならないのではないかと思います。これは鑑賞者の体験が近すぎるために起こる摩擦であって大戦を批判的に描いた絵画も実体験を持つ人間からすればなんだこのごっこはとしか思えない、時間が経って相対化されてはじめてうまれる価値というのもあるのかもしれませんが……とにかく体験がえらいわけではない、そのことは念頭におきつつもやっぱり震災に限らず宗教とか戦争とか、問題に対してその表層をひろって戯画化しておとしめるだけの表現がするどい批判とされるならそれは踏み込みがあまりに浅いのではないかというじめじめした気持ちがぬぐえません。
そういった表現についてもっともよく考えてしまったのが小泉明郎の「お母さん」という映像作品、これはほんとうにやばい。映像は椅子とカセットプレイヤー、ギターが映った小部屋にスーツ姿の男が入ってくるところからはじまります。男はプレイヤーで音楽を再生してからどこかへ電話をかけはじめ、どうやら母親と会話しているらしい。他愛のない会話も楽曲が不穏な響きをたたえはじめるとともに語り口が次第に深刻になり、母親にいま自分がどこにいるか質問をしはじめる。きっと電話口では母親が心配そうにいろいろ尋ねているのでしょう、この男はいったいどこにいてどうなってしまうのか?音楽はますます陰惨に盛り上がり緊張もクライマックス、いったいなにが起きるんだ!?僕はいま戦争に来ています!!!ボババババババ!!!!!!おそらく戦争っぽい音を口で表現する爆発的なマイクパフォーマンスがすさまじい音割れを引き起こし、悪趣味な MAD 動画でも見ているのかと錯覚するほどでした。そうしてこちらの気持ちがどんどん冷めていくのと対照的にパフォーマンスは最高潮、床中をのたうちまわりひとしきり暴れ終わったところで立てかけられていたギターがガシャーン!死にたくない……とさめざめ泣く男の声とともに映像は終わり、なんですかこれは?見終わってヘッドホンを外してから同じタイミングで見ていた海外のひととしばらく顔を見合わせて苦笑いしてしまいました。正直に言えば映像作品としてはめちゃくちゃおもしろい、ただこのおもしろさは声を立てて笑うあんまりよくないおもしろさな気がしてなりません。こんなことは各人で考えればよいことだろうがこれ本気ですか?と確認したくなってしまいますね、本気でこれがまっすぐ反戦的な文脈につながるのだとしたらあまりに直接すぎるし、もはやこういう表現を露悪的なユーモアで切り捨てているのであってくれと祈る気持ちさえあります。居住まいの悪さというか顔を見合わせてしまうギリギリのラインを踏むことで一種おもしろくさえなってしまう映像を作っている作家っぽいのでこういうアレルギーっぽい反応も意図的なものでしょうが、わざとですとさえ言えばこんなことをしてもいいのか?というのはちょっと気になるところです。意図どおりにまんまと気持ちを揺さぶられているのだとしたらこれほどくやしいことはないが、そういうわかりやすい表現に動かされる感性がまだ残っていることをよろこぶべきかもしれません。ゆったりコレクション展を回っていたらせっかくチケットを買ったのに企画展のほうまで回れなかったのがざんねんです。
あとはミュージアムショップをひとまわりして "アート" なグッズが置かれていることを確認したあと駅まで戻り、晩はひとと会う約束があったので恵比寿へ向かいます。会場が恵比寿なら東京都写真美術館のほうが近くてラクだったなということに恵比寿駅へ到着してから思いました、こういう勘がはたらかないことにじぶんがおのぼりさんだということをしみじみ実感しますね。会場は恵比寿駅からちょっと離れた住宅地とも形容しがたいよくわからないビルの中にあって、いつもの場所代メインで見た目ばかり派手などうでもいいごはんが出てくるのかと思いきや完全個室だしどのおりょうりもこじんまりとまとまっていてけっこうおいしかったです。とくに鰹のたたきにトマトのガスパチョがかかっているやつは和風なのにちょっとマリネっぽい味になってさっぱりしていたのでおうちでも真似したいなと思いました。
せっかくの個室なのでいろいろお話もして、これからの時代教育は魔法知能で代替できるみたいな最悪の主張をされたのでしっかりめに否定してみたのですが意見を変えるにはいたりませんでした。しっかりした初等教育を受けてご立派にそだったやつらってなぜか教育に関してはじぶんの考える方法が絶対にうまくいくという確信を持っていてほんとうにふしぎでならない、教職にかんする講義ひとつとっただけでもそれがまったくの思い上がりであるということはわかりそうなものですがまあどうせ現場にコミットするわけではないのだからどうでもいいか。最悪なのはこの勘違いを維持したままスタートアップなんか立ち上げることですね、じぶんがやっていることが格差の拡大再生産であることに気づかないのははっきりと邪悪だと思います。
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