いまにも雨が降りそうなくせに降るわけでもなくしかもしっかり蒸し暑いという梅雨の中でもかなり不快度のたかいおてんきで、そんななかにもひさしぶりに一日しっかりおでかけしてごくくたびれたおやすみでした。

昨晩はどうにも体調が悪いなか魔法薬を飲んでもちょもちょボルゴウを書いていたらこらえきれないほどのねむけがやってきた、すかさずおふとんへ入りそのままねむけを逃さず 1時まえには寝付くことができました。やめタイガーをさぼってしまったうしろめたさはあるがしかたがない、しぜんなねむけによる寝つきには代えられません。

そのまま朝まで快眠♪……かと思いきやなぜか日曜日にだけ発現するねむりの浅さは健在で、へんな夢をたくさんみて 90分おきに目が覚めるし 8時まえに目が覚めてからはもうどうしようもなくねむれない。結局どうにも不全感を残したまま 9時前におふとんを出て、こんなことならあきらめて 7時に起きていれば二度寝できていたかもしれないのにとくやしい気持ちでいっぱいです。げんきに過ごしたい日曜日に限ってこうなるほんとうになんでなんだ、もはや一種の自己催眠にかかっているのではないかとさえ思います。

起きてからはとりあえず朝ごはん、フレンチプレスでつめたいコーヒーを入れホットドッグを食べました。昨晩凍らせたメロンシャーベットは途中で攪拌するのをすっかり失念していたのでそれはそれはガチガチ、しかたがないので少し溶けるのを待ってからふたたびブレンダーで撹拌して冷凍し直しました。一度とかしたことで味が変わっていないかやや心配ですが、なめてみたかぎりはかなりよい塩梅にしあがっていたのでなんとか食べ切れるでしょうか。

食後はすこしボルゴウのしくみをいじってから(ヒマなひとは何が変わったか探求してみてください)身づくろいをしておでかけです。今日の目的地は麻布十番、おまちにいくのはいつでも新鮮におそろしい。南北線一本で到着するのだけはいいですね。しかし南北線の最寄り駅というのが坂の上にのぼったところにある階段を降りた先(!無意味すぎる)にあるので駅へ着く頃にはそれなりに汗をかいてしまいました。

駅に着いたらひとと合流して、駅から歩いてすぐのところにあるピザやさんでおひるをたべました。このおみせはいわゆるアメリカンタイプのピザというのを提供しているらしく、メニューもまずかならずチーズピザ一切れがついてそのうえでサイドメニューかもう一切れ別の種類を選ぶかという潔い構成です。とりあえずチーズピザは確定なのでもちろんもう一切れはペパロニ、ついでにコーラも頼んだらすべて使い捨て容器で知りもしない米国の風を感じました。

とどいたピザはとにかく生地が軽くガリガリに焼かれていてめちゃめちゃうまい、でかいカウチにどっかと腰掛け片手で持ちながら食べたい味です。というかこんなにガリガリだから片手で持てるんですね、日本で主流のパンピザだと絶対無理だろと思っていたので腑に落ちました。さきにペパロニを食べてからチーズのほうを食べたらこちらのほうはさらにうまく、たしかにこれならチーズピザ 2切れでもよかったかもしれません。

また食後にトイレを借りたら都会部でしかみない施錠すると曇りガラスになるタイプだったのでひそかに大興奮でした。これ使うたび下腹部丸出しでゴソゴソやってるときにブレーカーが落ちて、カメラが引いて「すべて」があらわになったショットに切り替わるのではないかと不安でしかたありませんが現実は三文コメディーでさえありませんでした。

食後は次の予定まで少し時間があるので麻布十番付近をウロウロします。恥ずかしながらこのあたりの巨大建造物でない住宅街がどのような様子かぜんぜん知らなかったのですがやっぱりいつものおさんぽコースとはまったく違いますね。とにかく冗談みたいな薄さの建売がいっさいない、建物の新旧問わずあきらかに注文住宅だろう意匠の凝ったファサードが多くてみているだけでたのしい、これってあたりまえですか?かと思えばしばらく歩くと高額納税者のみなさんのおかげなのか都心部とは思えないほど充実した公園もあらわれてなるほどたしかにみんな住みたがるわけだと思います。ひとの多さにもかかわらずやや微風な空間もありました:

いっぽう大使館がちかくにあるからなのか、あたりをうろつく街宣車から延々と罵声が聞こえてくるのには閉口しました。街宣車ってもっと事前にしたためた思いを高らかに宣言するのが主流なのかと思っていましたがバーカみたいなことを言いまくっても別にいいんですね、いいわけがなさすぎる。しばらく滞留していたらしくいっこうに音量が変わらないのもなんなんだよでした。

そうしているうちによい時間となったので六本木のほうへ歩き、森美術館でやっているロン・ミュエク展をみにいきました。ロン・ミュエクといえばリアルながら現実離れしたスケールの彫刻、みちのくのひとびとにとっては十和田市現代美術館のでっかいおばあちゃんの立像で有名ですね。今回の個展はキービジュアルにもなっている大量の頭蓋骨を配置した「マス」をふくめたぜん 11 作品にくわえ制作途中の風景をとらえた写真数点で構成されています。

全体としてはなんというかスケールそのもののもつ強さというのがあるよなというのをひしひしと感じました。もちろん小ささを含め造形のリアリティに対するスケールの異常さが生み出す異化効果みたいなものは前提としておきつつやっぱりでかいということが単純にすごい、人間はとにかくでかいものに対して大なり小なり心を乱されてしまうし目を背けることがむずかしい。それは単純に視界を占めるからということもあるし、そこにひそむエネルギーを本能的に感じ取るということもあると思います。

しかもそのでかいものというのがおおよそその大きさからくるエネルギーを感じないモチーフ……老婆などかぎりなくリアルなひとびとの姿であるものだから、造形に対するスケールのヘンさにくわえモチーフに対するスケールのヘンさまであってますます目が離せなくなってしまう。いっぽうえらばれるモチーフというのは軒並み一筋縄ではいかないというか、無視できない程度に不穏な気配をただよわせていることもあって目を背けたくなるという葛藤がうまれているのがおもしろいなと思います。

とくにこのスケールの力を感じたのは最後の「マス」でした。作家自身が指定したというレイアウトにしたがって巨大な頭蓋骨が 100個近く積み上げられているという展示で、下品なことばでいえばクソデカ・メメント・モリということになるでしょうか。死でさえもスワイプヒョイのわれわれにとっていまさら砂時計の寓意なんか見せられても倍速再生お願いしますでしかないわけですが、それでも死そのものが形をとってあらわれたような巨大でみょうに白い頭蓋骨がうずたかく積まれていると高さと大きさからくるエネルギーが圧倒的で、いまここにも新鮮な頭蓋骨が 100 こくらいあるし 100 ねんごにはみんなこうなりますということに否応のない迫力が出てくるし目を背けるのがむずかしく感じます。

とうぜんこんな空間で写真を撮っても頭蓋骨が秘めるエネルギーが失われるだけなんだからなんの意味もない、にもかかわらずツーショ写真をバシャバシャ撮っているひとがたくさんいるのでこんなに死が淀んだ場所でよくやりますねと思ういっぽう、なんというか直面化を避けるための手段のひとつなのかもなというのをすごく感じました。くらったときの行動として日常のルーティーンでそのエネルギーをカメラの中に調伏しようとするのってすごく自然な心の動きな気がする。他方頭蓋骨に造形された縫合線をめざとくみつけてこれは赤子のころにはもっとゆるくて〜というような解説をはじめるひともいて、ということはこのひとは知性化によって直面化を回避しているのかもしれませんね。もちろんぜんぶ勝手な推測というか妄想でしかないですが、そういう防衛機構が働いてもおかしくないくらいには巨大さからくるエネルギーに満ちた空間だったと思います。

そのほかの作品もおもしろかったです、とくに半裸の老人と鶏が机を挟んで対峙する様子をえがいた「チキン/マン」、真横からみたときの構図があまりに短編映画すぎてロゴがふたりの間に入っている様子までありありと想像できるなと思ったらほんとうに映画になっていたのがかなりおもしろかったです。ほかの作品では複数の人物が登場していてもあまり映像っぽくないのに、なんでこの作品だけあまりにそれらしいのかふしぎでしかたありません。

また恥ずかしそうに目を伏せた水着の少女の彫刻「ゴースト」に際して、この作品と頭身に比してみょうに発達した乳房をかくすように頬を赤らめるスク水美少女がえがかれたイラストとの距離を考えてしまいました。もちろんわれわれおたくの欲望をインスタントに満たすための記号の集合と現実の乱雑さを取り込んで批評の俎上に載せるためのギミックで目的からして違う、が水に濡れて張り付くスク水の質感を描き込むことと肌の毛穴にいたるまでを彫刻で再現すること、幼児のような頭身を保ったまま第二次性徴を迎えさせることと成長に対する内心の葛藤を表現するのに手足を歪にスケールさせることとがまったく直交しているとは言いがたいのではないか。

言いがたいからなんなんだ、牽強付会な共通点さがしのコーサツはたのしいのかというのは……わかりません。かりに共通しているならおたく絵が脱臭・記号化のプラトーに達して以降現実の乱雑さを付与する方向に流れてきたことを鑑み、ミュエクはこの先デフォルメ的な表現に向かうのかと考えるとそんなこともなさそうというのが現実のむずかしさですね。なんでしょうね、現実の乱雑さをとらえてえがきだす試みって果てしなさすぎてほかの表現に浮気している余裕がないのかもしれません。

さいごの映像作品 2本、とくに「チキン/マン」のほうはかなり見たかったのですが大混雑で 1時間待っても見られるかどうかというようなありさまだったので泣く泣くあきらめて、売店ではなぜかリミナルスペースを総括するような本が売っていたので思わず買ってしまいました。

ミュエク展に続いてみられる「ディアスポラ・メモリー - 境界を越えて生きるコリアン・アーティスト」もめちゃくちゃよかったです。ディアスポラ……故郷を離れ異国へ移住したひとびとのなかでもコリアン・アーティストに焦点を当てた展示で、複雑なルーツとその葛藤の中で溶け合った独自の表現技法というのがどれも非常にみごたえがありました。とくにクァク・インシクの「無題」、アンフォルメルの中にあらわれる一見乱雑な筆致のなかにもカリグラフィのような肉体に染み込んだ記号が浮かび上がっていく、そしてそこには国家や思想を超えた連続体としての人間の営みがあるというのを一撃で腹落ちさせるものがあります。

動作による記録という観点では肉体労働者のひとびとがその体に染み込んだ動作を反復する様子を記録したアレクサンダー・ウーガイ「10 万回を超えて」もすごかったですね。ここでも肉体から不可分の連続があらわれていて、また本来揮発していくだけのそれを映像として記録することでこうして今日にまで残すことに成功しているという点がおもしろいです。

展示を見終えたらのどもかわいたので出たところにあるちょっとしたカフェで休憩します。場所の割に安いじゃんと思ってアイスコーヒーを頼んだらもうそれはそれは残酷なほどにまったく紙パックの味でウケてしまいました。

このまま解散かと思いきやひとがホワイト餃子なるものを食べさせてくれるという、無料で食べられるならなんだって食べますよと思いひょこひょこおうちへついていきました。他人の家というのはいつ誰のところに行っても常に小さな銀河以外の宇宙法が治めているものだからモゾモゾしますね、小さな銀河ならこのおうちをもっとすてきにできるのに……などと思ってしまうのも自分の小ささを感じてイヤになります。小さな銀河はいったいいつになったら人には人の銀河がありカワイイがあり現実はカワイイナンバーワンバトルでないということを心から受け入れることができるのでしょうか。

このおうちにはじゃがいももあるらしい、レシピを考えているうちにサンジのパイユの話になったのでまずはじゃがいものパイユをつくりましょう。皮をむいて千切りにしたじゃがいもに塩・こしょう・粉チーズを和えて焼くだけ、ガレットとの違いはまったくわかりません。家では絶対やらないくらいの油を加えただけあって途中までは順調に焼けていたものの最後にひっくり返すタイミングで盛大にぶちまけてしまいまじで何やってんだと思いながらシクシク掃除しました。

意味不明なミスでさっそくトホホですが味はまあそこそこ、強いて言うなら粉チーズの塩気を計算に入れていなかったのでちょっとしょっぱいくらいでしょうか。そしてガレットとの違いは食べてもなおよくわかりませんでした。

そうしているうちにごはんも炊き上がってきたのでホワイト餃子も焼きました。分厚めの皮がぎっちり焼かれた中にニラやにんにくのきついやわらかめのあんがたっぷり入っていてちょっと小籠包てきなおいしさもあるんですね。うまいはうまいがこれとごはんだけひたすら食べていたらすっかりおなかがいっぱいになってしまいました。あとここにきゅうりとくらげの和え物や青菜の炒め物でもあれば完璧なのに、そう思うのはきっと小さな銀河が野菜を好きすぎるためなのでしょうね。

あとは週末終わりの倦んだ空気が支配している電車に揺られて帰り、さっさとおふろに入って少しでも夜を長くしようとこころみたものの奮闘虚しくボルゴウを書いているうちに日付は変わってしまいました。展示を見に行ったりするといろいろなことが起こるのですべて書いているとまじで遅くなってしまう、かといって日を跨ぐととうぜん全部忘れるし忘れない程度の最低限ですばやくメモできるようになりたいものです。

以上です。どうもありがとうございました

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